キリストの有名なフレーズについて、一度は書きたかった。確か、「汝、右のほほを打たれたら、左のほほを差し出せ」だったかな。
この意味を問いかけると一般的には、次のような議論になると思います。

こんなお人よしはいないとか、
偽善者、
自己犠牲や、善を全うすることで悦に入るとか。

「そんな反応しないよ」
という人でも
こんなことで相手は自分の精神性の低さには気づかない。打たれ損だ。
こんな事したら国が滅んじゃうとか。

これらは全く意味がない反応です。

Sponsored Link

この程度の議論にとどまっているから、
いつまでも人と人との争いは絶えないし、戦争もなくならない。

争いや戦争が「良くないこと」を前提として話せば、
というのは、良くないこととしない人や必要悪だという人もいるので、
人は自由に意見を持てるので、それらの人たちを尊重して切り出すならば、
以下はそれらの人を対象としない話なので、これより先には読み進む必要はありません。

私はキリスト教信者でもなければ、個人的にイエスを崇拝する人でもありません。
しかし、なぜかよくわかるのです。このフレーズは。

要は、主観的な話でもなく、相手側の観点でもなく、
この両者が同時にこの思いに気づくような社会が必要なのだということです。

わかりやすい想像をすれば、数学の集合で考えると良いでしょう。
社会が、誰かが攻撃したら、仕返しをしないという人だけで構成された集合だということです。
厳密にいえば、全ての要素が「攻撃」しないので、実際には、最初から完全なのですが、
人類の現状からこの集合体に至るまでの期間の遷移期に必要な考えがイエスの言葉だと思うのです。

残念ながら、今までこのテーマでこの結論に至る相手はいませんでした。

ひとりの人間が決まった時間にジャンプするのはたやすいが、
70億の人間が同時にジャンプするのは不可能であるのとおなじほど
不可能という意味のことが結論となってしまいます。

あとは、人間は闘争本能があるので、戦争は止まないという主張もあります。

でも、ルドルフシュタイナーが「自由の哲学」に書いている通り、
人間の歴史を見ると、他人も同じ自我を持っていることに気づかない時代には、
殺戮は日常茶飯だったけれど、進化を遂げ、他人も自分と同じ意識を持つのだということに、
気づけば気づくほど、相手の痛みが分かり、個人間の容易な殺戮は減っているし、抑止しようという考えも増してきているということです。
一方で、戦争がなくならず、仕掛けた本人が想像もつかないほどのダメージを与えてしまう
兵器を持っていることも事実ですが。

ただ、人類は他者を傷つけることが「悪」であることに気づいてきたとは思います。

時には、イエスの言葉に「はっ」と気づき、誰かから傷つけられたら、
抑制というより、なぜなのかをよく見極める必要があると考えます。

注意していても自分が相手を傷つけることがあります。

その時は双方が、何が最善の方法で、互いの幸福には
何をすべきで、何を為さないべきなのかを考える力が必要なのです。