2014年7月の記事一覧

マレーシアは、電車網がとても貧弱です。というより、東京と比べると、この国だけの話ではなく、ほぼどの都市も貧弱です。私など、東京の地下鉄など頭で諳んじて利用できません。誰もそうしていると思いますが、携帯で最短で行ける方法を確認して乗ります。覚えきれないほど、電車網が発達しているなんてことは、日本以外に、いや少なくとも私が降り立った、海外の都市にはありえません。

まぁ、全世界の15%しかまた行ったことが無いので、大半は想像ですが。

マレーシアは車社会なので、たいていは車で移動しますが、休日、渋滞がいやなので、ときどき電車を使います。首都KLl近郊から、KTMと呼ばれる電車でKLに向かいますが、1時間に、4-5本は有ると思いますが、たいてい予定時刻より到着が遅れます。

日本なら、遅れたら、「~分、遅れております。」とアナウンスが入ります。私はどちらの文化も受け入れています。時間に正確なのは、道具として大変便利です。予定が立てられ、その日の仕事の期待値算定を支える要素のひとつです。移動時間が読めない、仕事の終わる時間が読めないなどの要素に頻繁に出くわすと、仕事の期待値はどんどん下がります。

これが文化の差を生みます。良い悪いではありません。「文化の差」となるのです。期待値を裏切らない仕事の成果を残した結果、クオリティの高い文化を築けるのですが、その反面、余裕はなくなるようです。

期待されるクオリティの低い文化に身をさらしていると、余裕や許しが生まれます。

私は、両社の好ましい要素を融合させたいを考えています。クオリティの高さを称賛しながら、うまくいかない場合の許しという余裕を持った文化が理想です。そして、その果てには、高いクオリティそのものの評価基準も変わるかもしれませんし、レベルの高い中で余裕を持つ世界が現出されるのではないでしょうか。

明確には思い出せませせんが、昔、「人間を幸福にしない日本というシステム」という本がありました。日本の美徳を理解していないという批判もあったと思いますが、人間はやはり余裕を持つべきであり、その中で、完全という美しさを追求すべきだと思うのです。

アジアの中で期待される日本像とはそのようなものなのではないかな。

私は、まだまだ日本は、人間の生活を大切にしないという意味において、まだまだ遅れていると思うのです。

 



 

 

 

 

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冒頭いきなりですが、過去に「アポロ計画疑惑」が論じられたことがあります。ウィキの引用で恐縮ですが、良くまとまっているので、紹介します。「アポロ計画陰謀論」に詳しいので、興味のある方は眼を通されるとよいでしょう。

ここでは、その真偽を論じようというわけではありません。アポロ計画は1970年代を飾った快挙だと思うのですが、今はとんとそのような派手な宇宙開拓テーマが表には出てきません。とてもさびしい思いがあります。

当時、さまざまな思惑の中で、遂行された宇宙開拓テーマだったわけで、単純に宇宙に対する純粋な知識欲のみから発した計画ではなかったと思いますが、その後、太陽系内外に有人飛行するというような開拓計画は耳にしません。

人類はそれどころではないのでしょうけれど、人々の生きる目的の一つには、まず生活を支えながら、知識欲を満足させるというとらえ方があると思います。「生活を支え・・・」の点で、躓いている状態が平均的現状なのだと思います。

有る程度生活がうまく支えられたら、となりの星に行ってみたいと思いませんか。

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先日、KLの紀伊国屋書店で、「宇宙が始まる前には何があったのか」という本を買いました。日本に居る時は、休日、良く半日ぐらい書店で立ち読みをするのが週末の趣味でしたが、当時は気に入った本を簡単に買えたものの、海外に出てからは、日本の本は値段が1.5倍ぐらいするので、とても簡単には買えません。

物理学や数学系の「おもしろ本」には目が無いので、簡単に買えないのはとても苦しかったのですが、久しぶり買いました。子供のころに疑問を持ったテーマだったからです。

要は、宇宙は無から生じたのか、永遠の過去から存在していたのかというテーマ。専門領域まで達してはいなかったものの、多少とも物理学をかじった私から見て、この課題には結論がないことはうすうす感じていました。

「無」から生じたとしても、時間がなかったということをどう理解し納得すれば良いのか、永遠の「有」だったとしたら、それも納得するのは容易ではありません。

しかし、私という認識は、有限であり、少なくとも、自分という認識を持ったのは、生まれてから後のことであり、認識を持ったがゆえに、宇宙の始まりに悩まされなければならなくなったのです。

過去も未来も「永遠」らしき時間の中に、有限の認識時間を持つ私の存在にどうやっって「けり」をつけるかは、まだまだ続く課題です。

さて、この本のテーマはかくのごとしですが、実は、もっと議論しやすい近いテーマが隠れていました。

それは「無」とは何か?というテーマ。宇宙のビッグバン以前が「無」だとしたら、その「無」とはどう理解すべきかというテーマです。

物理学的な「無」は、ニュートン古典力学体系では、空間に物質が無いいわゆる真空は「無」でした。しかし、量子力学以降、物質の無い空間にもエネルギーがあるので、「無」とは言えません。

「無」とは「有」からその反対の状態を想像した架空の概念のような気がしてなりません。

エネルギーを「無」としてもよさそうですが、エネルギーすら無い「無」に意味が無ければ、やはり架空の概念だと思えてなりません。

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