ブログをご覧の方は、ご想像の通り、我が家では、子供との哲学談義が盛んです。
小学校高学年の息子の仮名を「トム」として、今日の会話の例をまとめてみます。
トム パパ、何事にも始めがあれば終わりがあるの?
私 何が始まるのかを決めるのは人が決めるんだね。例えば、何が始まったとする?
トム ピアノを弾き始めたとする。
私 そうすると、有る程度弾いたら満足する、疲れる、お腹がすくなどで休むよね。
また、ピアノを弾く前にしていたこともあるはず。
トム うん、本を読んでいて、弾き始めた。おやつを食べるのに終わりにした。
私 「ピアノを弾く」ことは、始まって終わったけれど、トム自身は何かほかのことをしている。
トム 行動自体に始まりも、終わりも無い。じゃ、別の話。草木が枯れたらどうなるのか。
私 枯れ葉は、風に飛ばされるけど、結局、地に落ちて腐る。
トム そうなると、他の草木の栄養になる。
私 そうだね。その後、別の草木の若葉になるかもね。
トム ぜんぜん、終わらないね。
私 そう。どうやら終わらない。話を続けていくと宇宙や人の意識にたどり着く。
宇宙は137億年前にビッグバンで始まったらしいけど、その前があったんじゃないかな。
意識も同じで、始まりも終わりも無く、変化の中にあるんじゃないかな。
トム もっと、もっと勉強してこの謎を解いていこう。
なんて具合です。
息子は、私がいろいろ考え始めた年齢に既に達しています。
やはり、このくらいの年齢になると、「なぜ、なぜ」ばかりではなく、
自分で気づこうとすること、主観と客観の識別がだんだんできてくるんだなと思います。