インドの話題に戻るというほどのものではないですが、マントラについて書いたとき、思いだしたことがありました。70年代-80年代はインドブームだった話。私の10代から20代にかぶります。この年齢はとにかく精神性が最も昂揚している時期だと思います。人生経験は全然無いのに、想像力と夢でいっぱしの大人と勘違いし、大ボラを吹く。少なくとも私はそうでした。これはその当時のトピック↓
私は学生運動の時代には乗り遅れていました。東大紛争で入試が中止になったことを思い出します。でもまだ受験生ではなかったですね。先輩たちは、ベトナム戦争批判、国家の体制批判ととにかく熱かった。でも私の時代には、いや私は闘うことを良しとしませんでした。どちらかというと、ヒッピー派だった。考えることによって、世の中の問題を克服する、あるいは無抵抗で勝利を目指す。哲学、宗教、自然科学など世の中のあらゆる方法論を駆使して、宇宙の疑問を解きたいなどと大言壮語を言い放っていました。常能力であろうと、超能力であろうとお構いなしに駆使する、そして限界を知る。そしてそれを克服する。そんなことをしているうちにまともな就職などできなくなり、世の中から離れてしまいました。そして行き詰まり、「資本主義の中に入って、食い破ってやるぞ!」と意気込んで、いや敗者の遠吠えだったわけですが、就職し、大学では宇宙論と理論物理をかじったものの、それは全く活かせず、というより意図的に生活の糧にはせず、人を相手にする「営業」という職種を選びました。会社の中では、名俳優を演じ、本音とは別の自分を演じました。挙句の果てに、それまで毛嫌いしていた「英語」に取り組み、30代後半で初めて外国語で仕事をするという、学生時代には想像もできない自分が今、ここに居るのです。
ざっくりと自己紹介となってしまいましたが、小学4年生の時に、風呂桶の中で「自分とは何か」「世界とは何か」「認識とは何か」というどうしようもない疑問にさいなまれてから、学生時代はずっと、疑問を解明するための方法論の渉猟と探索に時間を費やしていました。小学6年の時に、無理をして相対論を読み、中学2年の時、ファインバーグのタキオン仮説を面白がり、高校を経て大学に進むようになって、ようやく自分の中にある程度道具が揃い、ゲーデルの不完全性定理に取り組み、もしかすると、疑問を解消しようとしても方法自体に限界があるのではと危惧します。そこで初めて友人を通じて、哲学を知ります。
中でも強い興味を覚えたのが、インド思想。ようやくインドにたどり着きました。
当時、時代の象徴的「雑誌」として、平河出版社の「メディテーション」がありました。
インド思想の宗教的要素の部分については、客観的に焦点を定めにくいので、専門家に譲るとして、あくまで時代のメルクマールを語る意味で紹介すれば、この雑誌で初めて、「サイババ」に出会いました。実はサイババは、2人居ます。一人目は、「シルディ・サイババ」。インドのシルディという村に存在したサイ(叡智を持った) ババ(聖人)という意味です。
彼は、ヒンドゥーのヨーガ行者 (yogi)であると同時に、イスラームの修行僧 つまりファキール(fakir)です。そして、没後も数多くのイスラーム教徒・ヒンドゥー教徒から聖者として崇められています。両宗教をある程度知る私には、不思議ですが、宗教を越えた存在感のある人物だったのでしょう。1918年没なので、もうほぼ1世紀も前の人物ですね。インドでは、サイババといえばこの人物を指します。
さて、もう一人のサイババですが、メディアに乗ったこの「サティア・サイババ」の方が日本では知られています。サティアは本名(first name)です。もちろんインドでは熱狂的信者を従えた超有名人ですが、新興宗教家とみなす人たちも居ます。国民を構成する3民族の内の一つの民族がインド系である稀マレーシアにも信者が大勢います。そのサイババも、まだ記憶に新しいですが、2011年4月に85歳でこの世を去っています。その時、彼の葬儀は国葬として執り行われました。インドの大統領・首相以外で国葬が執り行われたのは他にマザー・テレサのみですから、インドが彼をどう評価していたのかがわかります。霊的指導者として、最高位レベルの評価をしていたと考えられます。
没年齢に関する逸話を添えておきましょう。彼は、先に述べたシルディ・サイババの生まれ変わりであり、自分の没年齢を予言し、その後2030年にプレマ村でプレマ・サイババとして生まれ変わるとも予言していました。プレマ(prema)の意味は「愛」だそうです。予言した没年齢と合わない印象があるのですが、後継団体によれば、太陰歴では予言どおりなのだそうです。とすると、生まれ変わる2030年というのも、太陰歴換算なのかもしれません。これには異論もあるので、参考情報として紹介しておきます。サイババ死去のニュースについての記事。サティア・サイババによれば、シルディ サイババは神を顕現し、サティヤ サイババは神を伝え、プレーマ サイババは神を教えるという使命を担っていうのだということです。彼によれば、死後8年で生まれ変わると言っていたので、上述のカウントのずれを考慮すると、2040年ぐらいには、20歳のプレマ・サイババに会えるかもしれません。その頃は私もサティア・サイババの没年齢ぐらいになっているので、会えるかどうか微妙です。もっとも、Shirdi Sai Baba News(英文です)によれば、もっと早く(死後1年)生まれ変わるとのこと。この辺は、諸説ありですね。
確かにここに書くまでもなく、信者にそしてインドにたくさんの貢献をして、ノーベル平和賞候補にもなった人物のなのですが、特徴的なのは、具体的な奇蹟的パフォーマンスを見せることでした。反対論者には、巧妙な手品として批判の的となるパフォーマンスです。周りの少年たちが、その助手となってるのだというようなすっぱ抜き映像で説明する人たちもいました。
手からビブーティという灰を大量に出したり、本人から遠く離れた信者の家に飾ってある彼の写真からアムリッタという蜜がでてきたりという話は有名です。私自身それを目の当たりにしたことが無いのですが、私の友人はしっかりと見届けたと言っていました。
確かにそれを目の当たりにすれば、驚嘆すべき印象深い出来事であり自分自身も驚愕するであろうと容易に想像できます。経験した出来事ではないので、なんともいえないですが、彼はその具体性のある行為を見せつけることによって、見る者にインパクトを与え、覚醒感のある状態にしようとしたのでしょう。何もないと思われるところから。具体的なものを出すこと自体に、問題を抱えてやってくる人たちの苦しみを解決することとは直結はしないので。重要なことは、奇蹟と呼ばれるパフォーマンスを目撃した友人も含め、彼に接した人たちがどのような有益な影響を与えられたかということ。それについては、私がどうこう言えるものではありません。
とにかく宗教は、それによって、苦しみから解放され、問題が解決し、目的に向かって一歩前進することに役立てば価値があるのです。ウィリアムジェイムズの「宗教的経験の諸相」にもありますが、有益であれば良いと思います。
私が断じて受け入れない宗教は、次の2つの要素を持つ宗教です。それは、生活の糧(お金)を教団なり、先に信じていた集団が後から来た信者から巻き上げることと、もうひとつの許せない要素は、戒律や恐怖でしばりつける宗教です。それではほとんどの宗教が、やばいだろうといいたいですか。そうかもしれません。自分には自分で信じる宗教しかないのかもしれません。しかし、既存の宗教にも優れた要素があり、有効と思えるものを取り入れれば良いでしょう。都合がよいといいたいですか、あるいはそれではエゴに過ぎずずるいとも。
私は宗教は、それなくして自分たちを律することができない魂の時代に有効であって、人が進化を遂げれば、自然に宗教自体も変わって行き、人がみな「己の欲するままに行動してのりを越えなくなれば(孔子の言)」、無用のものになると考えています。
そのような考え方に基づいているとして、ようやく「ガヤトリーマントラ」を紹介できます。
ガヤトリーマントラは、サティア・サイババが信者たちに詠唱していたとして知られていますが、起源はとても古く、3500~2500年ほど前にサンスクリット語で書かれ、リグヴェーダに記録にとどめており、記録される前から、何世紀にもわたって詠唱された可能性があるものです。ヒンドゥー教における最高峰のマントラとされ、ヴェーダ聖典の要素をすべてを含むと言われています。
ガヤトリーの意味は、ヴェーダの韻律のひとつで、八音節一行を三つ重ねた詩形のことなのですが、その後、ガヤトリーは神格化されて、創造神ブラフマーの妻で4つのヴェーダの母といわれるようになったとのこと。
さてこのマントラとどう接したらよいかですが、その目的として、いろいろな「御利益」が紹介されていますが、私が一番興味をひいたのは、「あらゆる危機を退ける」ことですね。生命たるもの、存在を続ける必要があります。さまざまな目的を持ち活動するためには、自分自身存在し続ける必要があります。「待ったなし!」です。具体的にはいろいろあるでしょうけれど、例えば、具体化するとちょっといやらしくなりますが、「敵の攻撃から身を守る(何も戦争のことを想起しなくても、ビジネスとしても解釈できます)」、「富を得る(経済状況の好転は、即生存力向上につながります)」、そして生命の定義である「個体存続」と「子孫の存続」の観点から、「異性との友好関係を築く」など。これらをまとめて「危機を退ける」と解しました。
習慣化にもいろいろな解説がありますが、何事にも「とらわれないこと」と、「試してみて有益ならば続けること」を、方法論と接する基準としている私は、危機の予防として、習慣化するのも良いですが、「万策尽きた時」唱えることができるものを持つという意味で効果的と考えています。
では、音節ごとの意味を簡単に記しておきます。
もちろん、外国語をカタカナで表現するのは無理があるので、実際にサイババが唱えた音声も紹介します。
オーム
(宇宙の始まりの音)
ブール ブワッ スワハー
物質界、心の世界、因果の世界に満ち満ちている
タット サヴィトゥール ワレーニャム
至高たる、女神サヴィトリーの、実在を讃えます。
バルゴー デーヴァッシャ ディーマヒー
究極の精神の輝き、聖なる真理を、深く瞑想いたします。
ディヨー ヨーナッ プラチョーダヤートゥ
かの叡智によって、我らに光があたえられ、絶対の真理を悟ることができますように。
ガヤトリーマントラをダウンロードする。
DLのプラグインの無い方は、普通に右クリックで名前を付けて保存でOKです。
最後に申し添えておきます。宗教や思想など、影響力の強いものに出会ったときの対処法です。私は、これは誰にでもできると考えています。ひとつの例を取ります。世にいわゆる「不幸の手紙」というのがあります。確か、「この手紙を受け取った人は、3日以内に5人の人に同じ文面で手紙を出すこと。それを怠ると不幸になる。」というような内容だと思います。私は、もしこれを受け取ったら、その場で破るでしょう。迷いなく。その理由は信じないからではありません。私には、その手紙の力は図れません。そんな力は有りません。どのような法則からその作用が訪れるのか全く予想もつきません。ただわかるのは、その力も私も同じ宇宙から生じたということです。もし何かが生じたら、それを機会にその謎を解明すればよい。そのメカニズムを解明すれば良いのです。
この宇宙が無から生じたのか、永遠の昔から存続していたのか未だに不明でなのですが、宇宙がどうやら存続を維持している状態であることは明白です。その部分たる私やまだ解明できていない法則も含めて、つまるところ「存続」に向かっています。もちろん、その過程で「破壊」もあります。その破壊の後に次の創造が始まっています。だから、宇宙にある存在は簡単には無意味の滅ぼされないと考えるのです。
その効能を確かめて身につけることができたら、有益な方法論はその一時的「危機」を回避するために用いればよい。また試している過程で、どうもこの方法はおかしい、妙だ、私に無理が生じていると感じたら、すぐ放棄すれば良いのです。いつまでも、こだわる必要はありません。自分の存在の基盤である「宇宙」を信じ、一瞬でも信じられなくなったら、「おかしいじゃないか、私を生んだ宇宙よ!こんなんじゃ存続できないよ。解決策を教えてくださいな。いくらでも謎解きするからさ」という乗りですwwwww