このブログで、よく出てくるのが、「ゲーデルの不完全性定理」。
この不完全性定理について、ちょっと考えてみます。
あらゆる問題を解くときに、最も信頼できるできる方法が数学であると、
暗黙の了解のもとに信じられていました。
この数学と言う方法論は不完全な方法であって、絶対的に真理を追究できる方法ではないと断言された定理です。
しかもそれを実証したのは、数学自身でした。
当時、1930年頃、どれほど、驚がく的なパラダイムシフトを起こしたのでしょうか。
ただ、まず断っておけば、数学と言う実証法は依然として有効であるし、
それを良しとして駆使する人間の理性そのものは決して否定されたわけではありません。
では、この定理の意味と役割はなんだったのでしょうか。
いろいろな文献を当たりましたが、なかなかわかりやすく、
納得できるものは少ないと思います。
その方法論が専門的知識を要するため、難解であることと、
その証明をブラックボックスとして扱い、
得られた結末の意味付けと価値を評価するに、
横断的な知識が必要だったからだと思います。
まず、オーソドックスな導入から。
不完全性定理には、2つあります。
そのまま、できるかぎりわかりやすくまとめると、こうなります。
1)第1不完全性原理
「ある矛盾の無い理論体系の中に、
肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」
2)第2不完全性原理
「ある理論体系に矛盾が無いとしても、
その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、
その理論体系の中で証明できない」
数学が自己矛盾を含まないことを数学的に証明することはできない』ということを、
『数学的な方法で厳密に証明した』」
我々が、どんなに公理を選択して、無矛盾にみえる理論体系を構築しようとも、
その理論体系の無矛盾を 自分の理論体系の中で証明することは不可能であるため、
選んだ公理が本当に正しいのか証明することは、絶対にできないということです。
まだ数学的言い回しが多いので、すぐぱっとわかりにくいですね。
そこで、これも使い古されたパラドックスの導入で、
理解への誘導を試みます。
これは数学ではなく、言葉の論理です。
「床屋のパラドクス」というもので、こういう問題。
「その村の床屋のAは、自分で髭を剃らない村人全員の髭を剃る。床屋のAも村人である。
では、Aの髭を剃るのは誰なのか」。
もしAが床屋なので自分の髭を剃ったのなら、Aは自分で髭を剃らない人物だったはずで矛盾します。
また、もしAは自分の髭を剃らないというのなら、Aは床屋ではなくなってしまって、矛盾します。
一体この論理構造はどうなっているのでしょうか。
答えは、このメッセージは矛盾しているということ。
もうひとつ。
最もよく知られた有名なパラドクスに「クレタ人のパラドクス」があります。
「すべてのクレタ人は嘘しか言わないと、クレタ人は言っている」というメッセージはウソかホントか、
という問題。
答えは明白で、このメッセージはウソ(偽)の言明である。矛盾したメッセージです。
言葉ではそれらしい表現はできても、
その言葉の意味は成り立たず、矛盾している。
そのようなことが、数学にも起こりうるという定理が、
不完全性定理。
当時、ヒルベルトという数学者が求めていたこと。
数学理論には矛盾は一切無く、
どんな問題でも真偽の判定が可能であること。
まずこれが、門下生のゲーデルの第一定理によって打ち砕かれたのです。
続けて、第2定理により、
数学の理論が正しいと決まるなら、
それを数学的に保証してみせることはできない
ということも証明されてしまいました。
真理を追究しようとする探究者の夢が砕かれたような状況に陥ったと想像できます。
しかし・・・・
この結末は、本当に落胆すべきものだったのでしょうか。
また、予想もつかないできごとだったのでしょうか。
数学とは何かを反省してみましょう。
簡単な例を引けば、「1+1=2」。
よく引き合いに出される数式。これは正しいか。
いうまでもなく誰もが「正しい」というでしょう。
ところが厳密にいえば、
直感的に「1+1=2」は「とても確からしい」ので、
これを正しいと仮定して、どんどん次の進めていこう。
また何か不都合があれば立ち戻って修正すれば良い。
そこで、「2+3=5」などを得ていきます。
「1+1=2」が成り立つ、つまり「正」であるなら、
「2+3=5」は「正」であり、これには不完全性定理が付け入る余地は有りません。
この関係性から数学によって、不完全性が導かれ、「正しい」とされたわけであり、
これからも数学は人類にとって重要な役割を果たしていくはずです。
この「確からしい」というを「自明の理」とも、
「アプリオリに明証」ともいいます。
そして誰もが認める確からしい前提を「公理」と呼びます。
この「公理」がいつの日か、それを越える「公理」によって
打ち破られる、つまり「完全ではなかった」と言わせる日が来ます。
これが永遠に続くと「不完全性定理」が言っているのです。
人類は自然数だけに不満を覚え、整数を考えだし、
有理数に不満を覚え、無理数を、そして、実数では解けない謎に突き当たり、
虚数を考案し・・・という歴史があります。
幾何学でも、ユークリッド幾何学に満足せず、
リーマン幾何学が考案されました。
物理学も、ニュートンの古典力学では説明がつかない謎に突き当たり、
相対論や量子論が編み出されました。
観測対象たる世界を我々が見出すのか、
あるいは新しい世界が現出されていくのかだれにも区別がつかない状況になってきています。
あるいは、認識能力を持つ人類が世界を作り出しているのと何が異なるのか
という人さえも居ます。
以前、般若心経の記事で書きましたが、
世界、認識、人間の理解の関係性を考えると、数学の誕生した要因である客観的世界は「色」にあたります。
世界を掌握しよう、法則性を見出し使いやすく住みやすい世界にしようとして、整数論や幾何学を
人類は考案したはずです。
世界(宇宙)つまり観測対象に意味を付けたり、法則性を持たせようとしたのは人類が勝手にやったこと。
そして観測対象から感覚器官を通じて取りこまれた情報を理解する機能が、「識」になります。
理性ですね。理性と数学はとても相性がいい、でも人類は、永遠に全ての謎を解くことはできないということです。
それが不完全性定理によって証明されているわけです。でも人類は永遠に謎を解き続け、
法則を応用していくことでしょう。
さてそこで、世の学者に質問。
世界(宇宙)には、完全な法則があって人類によって全てを掘り起こされるのを待っているのか。
なんとなく、この考え方が最もなじみやすいでしょう。
それとも、人類が全ての法則を見出しつつある中、宇宙が新しい法則を作り出してしまっているのでしょうか。
はたまた、人類が新たな法則を発見したと思いこんでいるのが、本当は人類が作り出しているのでしょうか。
私には、この3つの考え方の違いがわからないのです。
そして、その区別をすることに意味を感じません。
というわけで、私は1930年には、居なかったからでしょうか、
不完全性定理は、誰かによって、しかし天才の出現が必要だったわけですが、
解かれるべきして、解かれた難題だったのです。
その偉業をなり遂げたのがゲーデルだったのです。
当時は、すぐに「やっぱり!良くやった!」と言う人は居なかったのかもしれませんが、
皆の肩の荷を下ろしてあげたことになったはずです。
不完全性定理の証明は、
人類の進化のターニングポイント、つまり進化へのカタストロフィと言える現象だったのです。
蛇足ながら、この定理の意味と価値にに驚いたことは、
「空」の概念に出会った驚きと共通するものを感じました。