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「イスラム国」なんていう物騒な集団が世の中を騒がしています。これについては、以前「イスラム国とは」で記事にしました。参照ください。

要は宗教が異なることから来る争いがある。
イスラム国の問題は特殊で、極端ですが、宗教の違いから起こる諍いは絶えません。

私の住むマレーシアでは、異なる人種がいます。
肌の色の違う人、話す言葉も違うし、
なんといっても宗教が違う。

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日本にいるときには、まったく話題にしないテーマかもしれません。
日本人の宗教はどちらかというと、皆が強い意識をもってなさそうなので。

でも、ここにいるとそうは言ってられない。
実は、と言うわけではないんです。

もうお気づきと思いますが、
私自身、哲学好き、科学好き、不思議なもの大好き人間。
なので、宗教というテーマも哲学的観点から興味深いと考えているのです。

まず何故宗教ができたかについて考えます。
人間は再現性を求めます。
宇宙自体にも慣性の法則があるのように、ある安定した状態を保とうとします。
その上で変化したいと考えます。

これは個体維持と種族維持の本能を見ての帰結です。
一方、再現性を理解するために科学的手法が生まれましたが、
私は、妥当だと思います。しかし発展途上です。

ゲーデル定理(不完全性定理)のように、科学自体果てしない発展を続ける可能性大です。
しかし、人はそれを待てません。
今にでも宇宙の全てを理解し安心したい。

そのため、比喩的な受け入れを可能とする宗教を用います。
一旦、宗教で自分のレベルに合わせてこの宇宙のあり方を受け入れながら、
並行して科学的手法で心理追究を続けるというのが、
例えば、私のアプローチです。

鉛のボールは空気抵抗を受けにくいでしょうから、
高い塔から落とせば、常に、1秒間に約5メートル落下します。
あるときは空に舞い上がるなどということはありません。
そんなことがおきる宇宙ならまた別の科学法則を発見する以外にないですが。
というわけで、この宇宙には再現性を求めても良さそうな、
確たる法則がありそうです。

それで、帰納法と演繹法を手段とした科学を用いることが有効だと思うのです。
科学的手法を用いながら、不可知な対象を理解しようとしています。

宗教もその対象です。

ですから、祈り、期待、ツキを信じるなどは、その再現性の証明以前の手法として
既に用いています。いつか必ず証明されるだろうと信じている、
あるいは信じなくても結果を期待して使って見る訳です。

ウィリアムジェームズは、宗教は信者にとって有益であれば、
それを用いてよいとしています。

ですが、私の60年弱の経験上、次の2条件に該当する宗教は有害であり、
真理探究からそれており、個人の利益追求の目的を感じるので、
勧められません。

おや、となると良い宗教は存在しないって。
まぁ、そう言わず聞いてください。

1.信じないと不利益をこうむると脅す宗教
2.団体維持に必要最低限度の基本コストを越えた金銭を要求する宗教


要は、異なる教理も互いの信仰心を尊重して、他者の信仰を侵さないということが重要です。
私はたまたま宗教の交じる南の国に、住んでいますが、
各民族は異なる宗教であるにもかかわらず、(表面的には)
共存しています。

恐怖を感じずに、個人のより良い発展を目指す教理が重要で、
それ以外に意味を感じません。

それらの教理を信仰する者同士が、互いに理解を深めていくのが重要です。
その共通の道具がやはり科学的手法だと思います。
その科学も現時点での科学にこだわることなく、
常に前進を続けることを当たり前に考えることが重要です。

宇宙には自分の外側にはまだまだ理解を超えた現象があります。
自分の内側には、人間としての欲求があり、
それをいかにうまく昇華できるかに奮闘しています。
バランスの取れたアプローチでひとつひとつ課題を解消していく以外にないでしょう。
せっかく生まれて来たのですから、それを楽しむことが必要です。

ちなみに私は、現存する宗教のどれを信奉する訳でもなく、
もちろん無宗教でもありません。
未消化のままの課題を抱えながら、
日々の当たり前の生活上の課題にも取り組んでいます。
頼っているのは、やはりそれ自体進化し続ける科学的帰結です。
とはいえバリバリの科学信奉者でもありません。

理解を超えた恐怖にも、その手法でやはり勇気を持って立ち向かいます。
理解のための新たな手法があればそれを取り入れていこうと考えています。

この宇宙に存在し、こうして認識能力を持ち続けていること自体が、
とても興味深いことだと思いますし、貴重なことだと思います。

さて、あまりこんなこと続けていると
退屈してしまいますね。

今日は、この辺にとどめておきます。


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