私の趣味の範囲の根底にあるもの、それは科学です。
もっと、広い言い方をすれば「自然哲学」。
このブログでもときどき掘り下げます。
科学的手法とは何かというテーマがあります。
占いや、オカルト、宗教などは科学的ではないという話をよく聞きます。
確かに方法論からしてそうですね。
でも、だから価値がないとか、意味がないというのは筋違いです。
単に方法論が違うだけ。
自然科学は客観的な世界を媒体を通して得られた情報を分析して、
再現性があるかどうかを検証する方法論です。
媒体、例えば「光」ですね。
引力の法則も、相対論も全部、分析者たる人間がその感覚器官を通して
得られた情報を分析し、できあがりました。
光でもうまく捉えられない対象をどう納得するかについて、物理学には
不確定性原理という確率論まであります。
とらえる方法、手段が無ければとらえることができません。
とらえることのできないものは存在しているといえないと極論する人もいます。
しかし、手段を行使するが故に、その対象物の本来の振る舞いがとらえられないということもあり得ます。
たとえば有る人の生活を観察し、正確に記録しようとしてみます。
その人に常に張り付き、たとえば歯磨きまで観察したとします。
普段、1分しか磨かない人が、見られるがゆえに5分間磨くかもしれません。
これでは、真実の彼を捕えられません。
これは方法が把握対象をゆがめる例です。
また、元に戻ります。
「とらえることのできないものは存在しているといえない」でしょうか。
「意識」という対象はどうでしょう。
客観的に計測できませんね。
「意識」は存在しないのでしょうか。
占いは統計学といわれたり、オカルトには再現性がないとか認識できないものと呼ばれます。
対象を得る媒体が発見されないだけかもしれません。
人間の脳に取り込める媒体がないからかもしれません。
いきなりですが、密教のマントラで想いが叶うかどうか、
というテーマについて、科学では歯が立ちません。
マントラについては、このブログでも、
「マントラヨガ」と「ガヤトリーマントラとサイババ」で記事にしました。
興味のある方は、参照ください。
アプローチする方法がない。
アプローチする方法がないから意味がないとか、
あるいは再現性がないとは言えないのです。
有機物たる人間の肉体が意識を持つということ自体、
科学では説明できないのです。
私は以前の記事「iPS細胞の実用化の可能性は」の中で、「意識」とは、複雑系たる人間が有機体として構成された時、
自然に付与された機能ではないかと考えました。
科学的方法論にも何か限界がありそうです。
科学を行使して、より厳密に正確に再現性までしっかりと見定めるには、
現在の方法を越える「科学的手法」が必要かもしれません。
人間の「理性」は、どうしても厳密性、再現性を慎重に考慮するので、
盲信に陥ることは許しません。
その意味で。オカルトや宗教を越え、ひとつに統一する新しい次元の「科学」が、
現在の科学の延長上にあると私は考えます。